矢野誠一「志ん生のいる風景」読後感想…古き良き
矢野誠一「志ん生のいる風景」(1983年刊)に
1960年頃は桂三木助、桂文楽、桂小金治、三遊亭円生、三遊亭金馬、三笑亭可楽など明治生まれの落語家たちが元気に活躍していた。戦後の落語が、藝術的な水準においてピークに達した時期と言ってもいい。藝が、あふれるばかりの輝きを持っていた。
というくだりがある。
1900年より前に生まれ、1910年前後、坂の上に上り詰めた日本を10代、20代の時に経験し修行時代を過ごした藝人たちが1960年頃、60歳から70歳になっていた。これが1910年以降の生まれになると藝の質が変わる、というか落ちるのでないか?第1次世界大戦のおかげであぶく銭をつかんだ成金が登場し、関東大震災で古き良き江戸が破壊されて坂を転げ落ち始めた1920年代を10代、20代の時に経験した人間とは断絶があるように思う。古き良き江戸と明治の文明開化がちょうどよくバランスしていたのが1910年前後の日本だった。
1890年生まれの古今亭志ん生は1973年、1892年生まれの文楽は1971年に死ぬ。志ん生は1961年に脳溢血で倒れ再び高座に上がるようにはなったがロレツが回りにくくなり、1968年以降高座に上がっていない。こう振り返ると1960年頃ピークを迎えた落語という藝が1970年代に向かってどんどん坂道を転げ落ちていった、と言える。
1954年生まれの俺は生きている志ん生、文楽は味わっていない。残念ながら1960年代、俺は未熟で、日本の伝統藝を味わうことは出来なかった。1960年頃我が家でもTVを買ったと思われるが、最初は少年ジェット、月光仮面、怪傑ハリマオといった少年向け冒険TV映画、プロレス、プロ野球、相撲などのスポーツ、続いて鉄人28号、鉄腕アトム、エイトマンといったアニメを見た。また1960年代はナベプロ全盛時で日本TVのシャボン玉ホリデー、フジTVのザ・ヒットパレードも見た。今、”カバーポップス”と呼ばれる、アメリカンポップスの歌詞を日本語訳*した歌をピーナツや中尾ミエやスリー・ファンキーズ、尾藤イサオ、弘田三枝子なんかが歌ってた。そして笑いと言えばクレイジーキャッツ。彼らは1930年代から1940年代生まれ。上述の落語家、藝人たちと比べると40歳くらい若い世代。アメリカのジャズやポップスに毒されていたが、それでもまだ日本の伝統藝を引きずっていた。
*最近知ったことだが、漣健児(でさざなみけんじ)という人がたくさん訳詞してたようだ。
閑話休題①:
2005年頃韓国に行ったことがある。当時の韓国は古き良き儒教と新しいテクノロジーがうまくバランスしていたように思う。その頃を境に日本のテクノロジー・産業・芸能は韓国に逆転された。
閑話休題②:
1960年代って、日本が高度成長し、落語に限らず「古き良き江戸」の残り香を漂わせていた世代の人たちがピークを迎えた後、ピークアウトしていった時代。そういう藝人のなかで最後まで生き残ったのが1900年生まれの三遊亭円生。1979年死ぬまで高座に上り、談志も「最後の…」と評価した。「包丁」という落語があるが、男が小唄を歌いながら女をくどく場面が肝になっていて小唄をうまく歌えない談志が、「包丁」を聞くなら円生のを聞けと言ったという話が残っている。そんな逸話をWikipediaで読みながらYou Tubeで円生の「包丁」を聞く。円生の話は志ん生のように笑えるものではない。でも古き良き時代の残り香を感じる。
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