敗戦と終戦

 8月15日を終戦記念日と呼ぶのは、負けたことを誤魔化す卑怯な言い換えだ、潔く「敗戦記念日」と言うべきだろう、と思ってきた。昭和20年8月15日、宝田明少年*の父が満州で「これで終わりだ」と言った、というのを聞いて、もしかすると「終戦」とは戦いを終えるというのではなく、「戦いに負けて全てが終わった」という意味か、と思った。そうなると単に負けたという意味の「敗戦」より「終戦」の方が重い意味を持ち、また適切な言葉であるような気がする。日本は全身全霊をかけて戦争した。それに負けたのだから全て意味がなくなり、全てを失う=終わる、という、日本国民の気持ちを表したということ。

「終戦記念日」という言葉は昭和20年8月15日より後に生まれた。名付けた人は日本は全てをかけた戦いに負けて全てを失って、終わった、ご破算になったから新しい日本に生まれ変ることができる、という意味を込めたのではないか?つまり、連合国との戦いに負けたというより、勝てもしない戦いをズルズル続ける日本に日本国民自身が嫌になり、それにようやくピリオドを打つことができた、ということ。

国民が好戦的になって「鬼畜米英をやっつけろ」と言えば、負けると分かっている戦争でも始め、一旦始めた戦争は厭戦気分が蔓延するまでやめられない…情けない国だ。でも、国民の声に素直に耳を傾ける本当の民主主義だったとも言える。

*なかにし礼は満州にいた日本人は日本国に裏切られ、捨てられたと言い張っていた。宝田明はそうは言わない。行方不明になった兄を捨てて日本に逃げてきたから?

閑話休題>>>

言い換えは大嫌い。高校生売春を「援助交際」、男が若い女を金で買うことを「パパ活」、安全保障に関する法案を「戦争法案」、空想的理想主義憲法を「平和憲法」…

「少し」「ちょっと」と言うんだけれど、どう考えても「ちょっと大変」ではなく「とっても大変」である場合も理解不能。耳障りをよくしたいのか?耳障りがいいって「誤魔化し」「嘘」ってことだよね。

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