夏目漱石の日記(その2)

 結局、日本人の何が嫌いかって「当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れ」るところ。俺は戦争は否定しない。決してなくならないものだと思う。だけど、大東亜戦争の時のように、「当局の権」や「野次馬の高声」に振り回されるのはご免だ。徴兵されて「おめでとう」と言い、戦死したら「お国ためによくやった」と言う。特攻隊に「志願」する。(そうしなければ『非国民』と罵られる)それどころか、「当局の権」がどちらに向いているのか、「こんなことをすると野次馬がこう言うだろう」などと実にくだらないことを詮索するのに血道をあげるなんてもっと嫌だ。

自分の頭で考えるとは「当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れ」ないこと。百歩譲って当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れ」てもよいが、自分は当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れ」て不本意ながら馬鹿なことをしているのだ、という自覚を持つこと。

さて、日本人は当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れ」ないようになるのか?教育勅語みたいに短期間で国民を「天皇陛下万歳」に変えるような特効薬はないのか?日本の歴史を振り返ると鎌倉時代から戦国時代にかけての400~500年間、武士は自分の頭で考えていたように思う。(聖徳太子の十七条憲法ができる前の豪族もそうだったように思われるが、正確なことは分からない。)つまり、血で血を洗うような、家系や血筋なぞ関係のない権謀術数、弱肉強食の環境がそうさせる。日本人はこういった争いに疲れやすく、飽きて厭戦気分が充満し「和」とか「話し合い」などと言いだす。令和の御代も「和と話し合い」の時代だ。そして皆さん当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れ」る。だが、最近「和と話し合い」の象徴である天皇に変化の予兆が。神話の時代から皇族たちは勢力争いや後継争いを繰り返し、血で血を洗い合い続けてきたが、平安末期にはその争いの決着をつけるのに武士の力を借りたことから武士が台頭し、鎌倉時代を迎える。令和の次の天皇は昭和以降の天皇のように「和と話し合い」を金科玉条とし「日本や世界の平穏を祈る」ようなことをしないのではないか?もっと言うと、天皇制を天皇自ら否定するようなこともあるかも。早ければ22世紀には日本は平安末期のような乱れた時代となって日本人も自分の頭で考えるようになるかも。しかし、戦乱の世が日本人にとって幸せか?自分の頭で考える必要がないくらい平和なのとどっちが幸せだろうか?




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